いろいろある藤戸
ちょっとうんちく
藤戸合戦
寿永三年(1184)に藤戸海峡を挟んで源氏と平氏の戦がありました。平家物語で語られる藤戸はこの戦の事を語っています。小島の地に平氏が布陣、およそ二十五町ばかり隔てた対岸の備前の地に源氏が布陣しました。その間に藤戸海峡があったのですが、今、この藤戸海峡はありません。岡山県の倉敷市と児島半島の陸続きになり藤戸町になっています。
藤戸合戦に因んだ場所として御崎神社や藤戸寺、浮洲の岩跡などいろいろあります。浮洲の岩は現在、醍醐寺三宝院庭園に藤戸石として据えられています。時の権力者によって天下の名石として転々とした歴史を浮洲の岩も背負っています。今は安住の地に納まって観光客の目を楽しませているようです。また、浦の男というのは漁師だったという伝承や、笹無し山の話も伝えられています。
平家物語では9月26日、吾妻鏡では12月7日と合戦の日の伝承に違いがありますが、唄浄瑠璃狂言「藤戸」は平家物語に合わせて寿永三年九月としました。
藤戸合戦での平氏と源氏の兵力
平家物語では、平氏方の大将軍は小松の新三位中将資盛(吾妻鏡では行盛)です。平氏は有名な侍大将、悪七兵衛景清を先頭に五〇〇艘の船で布陣したとあります。源氏方は源頼朝の弟の三河守源範頼で三万余騎を引き連れた本隊です。この中に侍大将佐々木三郎盛綱がいました。先勝を重ねて活躍していた義経は先兵隊ですから、この藤戸の戦は屋島での勝利を導くための大きな意味のある戦いでした。平家物語では範頼の活躍は語られていませんが吾妻鏡によるとかなり有能な武将だったようですよ。
平家物語では源氏が藤戸へ兵を寄せたところから始まります。
能の藤戸は、源氏が勝利して佐々木三郎盛綱が領主として児島にやってきたところから始まります。
唄浄瑠璃狂言の「藤戸」は佐々木三郎盛綱が平氏と対峙しているところから始まります。
侍大将の佐々木三郎盛綱はどんな人?
容姿は…佐々木三郎盛綱が騎馬で藤戸海峡を渡る図が岡山県立図書館にあります。もちろん、後世に描かれたものです。本当の姿は想像するしかない?
家柄は…佐々木三郎盛綱は宇多天皇を祖とする源氏の流れで、佐々木家の発祥の地は近江といわれています。そのため、日吉神社の影響が強かったようです。後の京極家や尼子家もこの源氏の流れになります。高貴な家柄だったのですねぇ
源頼朝は清和天皇を祖とする源氏で源家一門の統領の家柄になります。佐々木兄弟は頼朝の近臣として仕えました。長男に定綱、次男に経高、弟に佐々木四郎高綱がいます。(余談ですが、岡本綺堂が高綱のことを作品にしていますよ。)
そして…盛綱は児島の地を頼朝から賜りましたが定綱は鎌倉幕府が成立した後、近江国守護になっています。ところで、盛綱は三男なので三郎という呼び名がついています。先陣争いをするだけに、なかなかの強者だったようですね。
さて、唄浄瑠璃狂言の「藤戸」ではどんな盛綱になっているでしょうか。観てのお楽しみ…
唄浄瑠璃狂言ってな〜に?
浄瑠璃といえば文楽を思い出すほどですが、実は文楽も浄瑠璃の中のひとつです。唄浄瑠璃は長唄の浄瑠璃になります。 歌舞伎の長唄は江戸で生まれました。常磐津や清元も歌舞伎に取り入れられましたが、長唄は歌舞伎音楽の黒御簾専属の唄として大成します。 元禄(1688年〜)の頃に浄瑠璃といわれる語り物の義太夫節や一中節が大流行しました。その義太夫節が今の文楽です。そして、明和(1764〜)の頃になって一中節から長唄に転向した富士田吉治が一中節の要素を取り入れた物語性のある長唄の浄瑠璃を誕生させました。唄浄瑠璃は今でも上演されています。代表的な曲に「鷺娘」や「隈取安宅松」があります。また、同じ頃にメリヤスといわれる長唄の独吟も生まれました。
この長唄を使った音楽劇が唄浄瑠璃狂言です。現代のニーズに合わせ、歌舞伎音楽のつけ師として六十年あまり活動をされてきた杵屋佐之忠師と作者の堀川登志子によってモダンアートの音楽劇として新しく創られました。
唄浄瑠璃狂言「藤戸」は、平家物語の藤戸と能の藤戸をベースにした新しい作品です。今回が初演になります。
黒御簾のこと
黒御簾は歌舞伎の音楽で長唄、三味線、囃子で構成されています。唄浄瑠璃狂言「藤戸」では舞台の効果音として様々な活躍をしてくれます。波の音、深海の音、唄はもちろんのこと、合戦での太鼓はそれだけでも聴き応えがあります。 そりゃ、音楽劇なんですから、音楽としても楽しまなきゃね。
平家物語の「藤戸」と能の「藤戸」との違いは?
平家物語の「藤戸」は、源氏の侍大将佐々木三郎盛綱の功名談として語られています。藤戸の海峡を挟んで源氏と平氏は対峙していましたが、船を持たない源氏はなす術もなく日数を過ごしています。平氏はそれを良いことに源氏を挑発しますが源氏はどうすることもできず窮地に追い込まれます。そんなある日、盛綱は浦の男から馬で藤戸を渡る道を聞き出し先陣の勝ち戦をあげます。情報が漏れることを恐れた盛綱はこの浦の男を殺していました。けれども、勝ち戦の為に盛綱は武将として当然のことをしたのであって、それは戦の最中のことだから仕方のないことだったというのです。そして、勝ち戦をした盛綱はこの地の領主となりました。平家物語は、国のついえ(公金の損失)民のわずらいのみありて(戦のために人々は疲弊している)と結びます。この結びの箇所はポイントです。戦は誰の為にあるのか、考えさせられます。
能の「藤戸」は、世阿弥の作として伝えられています。室町の頃に活躍した世阿弥は貴族に変わって新しい支配者となった武士階級の後援を得て能を大成させました。世阿弥は平家物語から多くの能を仕立てていますが「藤戸」もその中のひとつです。ここでは、盛綱に殺されてしまった浦の男、漁師の母親の嘆きが描かれていますが、世阿弥の眼目は、母親の嘆きに同情し、恨みをもって成仏できずにいる漁師の魂を救済する者として盛綱を描いていることです。
当時の社会は、仏教思想が一般庶民にも広まっていました。そうした中で、殺生を生業とする漁師は下賤の者として武士に殺されても仕方のない存在でした。盛綱のした事は、転生して良い身分に生まれ変わる手助けをした人物ということになるのです。とはいえ、人の命を奪うことは武士の生業であって仕方のないことだと納得していても、ひとりの人間として、やはりとても辛く感じていた筈です。世阿弥は、そうした武士の心に安らぎを与える能を作ったのです。それと同時に、母親の嘆きと殺された漁師の怨霊を描くことで、平家物語で語られていた戦によって疲弊している人々の魂をも仏教によって救済される能にしているのです。
今日では、母親の嘆きを主題にして演じられています。価値観は時代によって変わりますから歴史の中で謡曲の主題への解釈も変わっていくものといえます。
登場人物
唄浄瑠璃狂言「藤戸」は、戦とはいえ人の命を奪ってしまった、盛綱の無明をテーマに描いています。
というわけで、恨み言をいう母親に「まつ」と名前をつけました。浦の男は若い漁師の「潮丸」。潮丸の新妻の「千鳥」も新たに登場します。名前というのは大切ですよ。名前が無いということは、一把ひと絡げのその多大勢。箇々の顔が見えません。名前があることで個の命が宿ります。名前を知らない人間と名前を知っている人間と、温度差を感じませんか? 今も戦争は続いていますが、顔も名前も知らないから平気で数字にしてしまいます…。
もっとも、舞台に登場する人物として、わざと名前を付けない場合もあります。作者が名前をつけない時はそれなりの理由があるので、チェックする必要ありかな…
作者がこれを書いた時は…
私がこれを書いた時は、原発がこれほど広範囲に影響を及ぼす大きな社会問題になっていませんでした。原子力発電は社会にとって良いことだとして推進されてきましたが、盛綱の戦に置き換えて考えてみますと、盛綱にとって源氏の世の中を作ることは正義でしたけれども、その為に殺されてしまった人々がいる。原発も同じです。もっと問題なのは、子供達の世代にまで原発の影響が及び続けるということです。盛綱の罪より深いのです。それなのに、原子力発電は廃止の方向に進んでいません。震災の影響から公演が1年後に延期となりましたが、くしくも、3月11日という日に公演をすることになりました。何かを感じずにいられません。唄浄瑠璃狂言「藤戸」を公演することの意味があると思っています。(作者談)
邦楽を使った音楽劇の制作を承ります。
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○ 梅左事務所では唄浄瑠璃狂言の他にも琵琶、尺八、囃子といった邦楽楽器を使った音楽劇の制作をしています。
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