◎安珍と清姫の出身地
安珍は奥州の白河の出身です。白河は大和政権の東北の最前線で蝦夷(縄文人と考える学説もある)の世界との境界線でした。そして大和政権の支配が進むに従い神仏混淆が進んだ時代です。そうした中、安珍は神道に密教を取り入れた山岳信仰の山伏、つまり修験者で、修行のために熊野権現に参拝に来たのです。熊野は修験道の聖地です。那智の火祭りは今も有名です。安珍を僧というところから、後世になってお坊さんの姿にされてしまったので誤解されていますが、法師は仏道修行の僧をいいますので、修験者の安珍も山法師・僧ということになります。日本語は解りずらいと思われますが、それだけに歴史を知ると面白いです。
清姫は紀伊の国の真砂の庄に育った娘です。真砂は熊野古道にあるので、古くから往来のあった開けた土地柄ですが、紀伊半島は温暖な気候と降水量のある地域とはいえ海に囲まれた山の多いところです。そして、伊勢神宮や熊野権現那智大社があるように大和朝廷と深い繋がりのある土地です。
道成寺は天台宗のお寺になっていますが、もともとは千手観世音を祀っていました。天台宗の開祖、最澄が開基した比叡山延暦寺は822年の開基ですが、道成寺はさらに歴史が古い701年の開基ですから、まだ天台宗はありません。天皇家の後嗣問題とからみ世情不安の時代、最澄はそれまでの護国のための仏教から民衆のための仏教の教えを説きました。後に鎌倉仏教が生まれた土壌があったといえます。それはさておき、天武・持統天皇系から天智天皇系になるとともに仏教も護国の南都仏教から唐の留学から帰国した最澄の天台宗や空海の真言宗の時代へと移行していきます。
天台宗は初期の日本仏教なので密教の護摩の儀式を執り行います。護摩は火祭りを意味しますから、燃えさかる炎で浄め祈願します。安珍が道成寺に逃げ込んだのも同じ教えがあるお寺だからですし、それとともに道成寺は聖武天皇縁のお寺なので神道と深い繋がりがあるからです。歴史的に大きなうねりのあった時代といえます。
こうした中で、道成寺は民衆を教化していく絵解きの説法をすることで人々に大きな影響を与えることになります。清姫は水の精である蛇に化身して火焔の炎で安珍を焼き殺すことになっているのにも、深い意味が隠されています。詳しいことは後日にゆずりますが、なかなか興味深い物語が安珍清姫の物語なのです。
◎三人の巫女
清姫異聞では、阿字、織幡、天音という三人の巫女を登場させています。
古来、巫女は神や霊魂の依り坐であり、口承伝承者でした。ですから、巫女の名前にもそれぞれ意味を持たせています。
阿字は梵語で宇宙は不生不滅であるとの仏教の心理を示しています。神道の巫女の名に不思議と思われるかもしれませんが、龍神は美人を欲しがるという伝承や貧愛の者は蛇道に落ちるという因果譚も仏教説話にありますのと、神仏習合はあたりまえの時代でしたから、道成寺の行者は調伏するために謹請東方青龍清浄…と宇宙の龍王達にに祈っています。ですので龍王の依り坐となる阿字の巫女には相応しい名前なのです。
会津風土記などに織幡淵といわれる場所が出てきますが、水害を防ぐ為に人身御供にされた機織女の伝承があります。他の土地にも機織池の傍らには機織姫神社があったりしますが、水底で女神が機織をしているというものです。また、海に沈む釣鐘を引き上げるために織幡山の前に石を集めて埠頭を築いたという伝承もあり、水と織幡の名は深く結びついています。そして、面白い事に海女が登場する伝承を持つ織幡神社もあります。海女も水底に潜るわけですが、道成寺を建立した醍醐天皇の生母、宮子姫は九海士の海女の娘であり、海女の母親が水底から観音像を拾い安置して祈ったことで宮子姫は美しい髪の美女となって文武天皇の妃になり醍醐天皇の生母になった女性です。まるでシンデレラストリーそのままだと思いませんか。でも、実話らしいのです。
天音は、この道成寺縁起から名付けています。道成寺はそもそも天音山全体のことで、「カネ無く響く天音山は道成寺の寺」とあります。天つ空に響く梵鐘の音は人々の煩悩を払い、魔を寄せ付けぬ音でもあるのです。平安無事を祈る人々の願いが込められています。たとえ実物の鐘がなくとも、天音山には鐘の音が響いていたことでしょう。
◎道成寺物語のそもそも
道成寺は天台宗のお寺ですから法華経は根本教義のひとつです。
ですから、日本法華経験記の物語と道成寺は深い縁があったのですね。
日本の天台宗は唐に渡って天台教学を学び禅と密教の修行をした最澄が延暦25年(806年)に開きました。道成寺の開基は養老三年(719年)ですから、道成寺はもともと由緒のあるお寺で千手観世音の霊域とされています。道成寺が開かれたのは文武天皇の夫人となった宮子姫の祈願からですが、奈良の東大寺を建立した聖武天皇の生母となった女性です。そして、宮子姫はもともと海女の娘でした。海女による漁法は古くから行われており、紀伊半島の魚介類は朝廷に献上される神饌でもあったのです。
時代が変遷していく中で、古刹の道成寺も唐からもたらされた天台宗を取り入れていくわけですが、神道と結びついた仏教は、仏教説話の中で日本人の精神や芸能に大きな影響をもたらしてきました。たとえば、「鶴の恩返し」のお話も説話のひとつです。
ところで、天台宗では、密教の護摩による祈祷も行われています。護摩は火祭りという意味です。火は俗世の穢れを焼き払い願いを聞き届けてくれるものです。全国各地に火祭りがあるのはその為です。
道成寺物語の清姫が火焔の炎となって鐘もろともに焼き尽くすのには深い意味があると思いませんか…
◎清姫と安珍の名前の由来を推理する
そもそも、道成寺物語に登場する女や僧には名前がありませんでした。
日本法華経記(大日本法華経記1041年)にある物語なので、法華の功徳で救われるというお話になっています。これは仏教説話ですが、民衆を教え導くために因縁話や比喩など、たとえ話にして仏の教えを広めたのです。こうした説話を集めたものが1066年に書かれた今昔物語です。この中に「女の執念が凝って蛇となる話」として乗っていますが、まだ、ふたりには名がありません。
時代は下って、室町時代になると能が大成します。能の「道成寺」は「鐘巻」をもとに創作されたといわれていますが、鐘巻は能の前身の猿楽の影響があるとされています。道成寺は世阿弥の作とされていますがまだ確証はありません。物語は、宿を貸した寡婦の女は真砂の荘司の息女と、純潔の生娘に性質も変えて書き換えられています。そして、この能にも白拍子の女とあるだけで、かの女(おんな)と、やはり名前はありません。この白拍子に花子と名前がつけられたのは歌舞伎になってからです。
歌舞伎よりも古い歴史を持つ浄瑠璃が生まれたのは説話を源流としているからですが、浄瑠璃に名前が所見されるのは江戸時代の1742年に上演された「道成寺現在鱗」で、白拍子の名は桜子。そして、桜の美しい季節は春です。
安珍の名は日本で最初の仏教通史といわれる元亨釈書(1322年)という書物に鞍馬寺の安珍と出ているそうです。私はまだ確認していません。ごめんなさい。
では、安珍と清姫という名前がつけられたのはなぜでしょう。
安珍の安は心配を取り去るもの安んずるという意味です。珍はめずらしいもの、貴重なものの意味ですから、厳しい自然と暮らす人々にとって安珍は平和をもたらしてくれる貴重な存在、人々の願いの象徴であり希望でもあった筈です。ですから、魔を払い、福を呼ぶ神聖な釣鐘の中に隠されたのです。それにも関わらず自然神の清姫の怒りは人間の欲望を焼き尽くすほど強いものでした。梵鐘は失われ鳴らなくなるのです。ですが、尊い仏の導きによって鐘は再興されて再び人々に平安がもたらされることになるのです。安珍の復活ともいえます。道成寺説話でも僧は回向を受けたことによって天上界の都卒天に生まれ変わります。
というわけで、安珍、清姫と名付けたのは誰なのかはっきりしません。でも、たとえ文献に載っていなくとも早くからこの物語の主人公に名が付けられていたと想像はできます。そして、ふたりの名前には人々の願いが籠められていると思います。清姫の清いは水によって浄めることに通じます。清姫は火焔の炎で安珍を鐘ごと焼き殺しますが、火もまた浄めるものです。水と火は対立するもののようですが、穢れを落とすという意味では同質なのです。そして、水も火も人々に福も禍いももたらす自然神です。ですから清姫は自然の申し子といえます。それに、稔りの大地の神が地母神であることも関係していると思います。早乙女たちは、この道成寺物語をどのように聞いたのでしょうか
これほど長く、何世紀にも渡り語り伝えられてきたのにはそれなりの訳があるのです。道成寺物語を調べているうちに思いました。科学技術が進んだ現代も東北の大震災や各地でも水害が続きました。むしろ人的被害が大きくなっています。人々が安心を手に入れることは容易ではありません。安珍清姫の名前はとても意味深いものがあると思います。原作は女の執念から蛇になりますが、語り伝えられ、人々の芸能となっていくうちに、けっしてそれだけではない語り伝える者の願いが込められていったのだと思います。